メンソール・メンソーレ
いつか死ぬその日のために、今をひたすら生きているヘタレ大学生の肥溜めブログ。

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死体から学ぶ「メメント・モリ」

 今回のゼミ合宿で発表したもの。
 卒論の最初の部分に組み込む予定のものです。
 まだまだ肉付けしてかなきゃならんのですが、
 人体の不思議展の感想も一緒に書きたくて、
 これに内容盛り込んじゃいました。


 先生はね、人体の不思議展ではみんな「死体」としてではなく
 「標本」として見てるから、何も感じないんだろうと言ってました。
 そりゃーそうだ。
 タイの死体博物館は、標本ではなく死体として展示してるし、
 ホルマリン漬けとかはプラストミック標本より生々しいから、
 気持ち悪いと感じるだろうな。
 人体展は、やっぱり「死=タブー」の意識から、
 あえて「標本」って言ってるんだよね。
 「死体」展示会って言ったら、批判されるだろうから。
 私の中の潜在意識も、「死体」ではなく「標本」として見ていたんだろうなぁ。


 私は内臓グチョグチョのグロ画像よりも、血のほうが苦手。
 血は見るだけで貧血起こすし、5ml採られただけでも貧血起こす。
 血って、人間のつながりっていう意味もあるよね。
 「血縁」って言うじゃん?
 だから、「血がない=人間としてのつながりがない」から、
 血があんまない標本みたいな死体とかは、「モノ」っていう意識が
 余計に強まるのかもしれない。
 血って、人と人とを関連させる大切なものなんだね。


 それから、目も大切かもしれない。
 人体展の標本はほとんど義眼のものが多かったのですけれど、
 義眼ではなく本物っぽい濁った目のものを見たときは、
 ちょっとだけくるものがあった。


 ではでは、発表用のモノをどうぞ。









 「メメント・モリ」(死を覚えよ)という言葉がある。これは、自分自身の死についてという意味だ。
 しかしいきなり言われても、よくわからないだろう。
 なぜなら、ドイツの哲学者であるヴィトゲンシュタインが「死は、生の出来事ではない。人は死を経験しない。」と言っているように、自分の死を体験するということができないからだ。
 私たちは、他者の死によってしか、死という出来事を知ることができない。
 しかし他者の死はあくまで他者の死であって、自分の死ではない。
 死後すぐの死体を見て、どう思うか。多くの人は「悲しい」「怖い」「気持ち悪い」などと答えるだろう。
 それは、その死体が生前生きていたことを私たちが容易に想像できて、その生きていたものが動かなくなり、私たち生きている人間とは違うものになってしまったことが信じられないと思い込むからだ。そしてそれはおそらく、自分と関わりがない人間の死体であってもだ。
 逆に、解剖され、切り開かれ、プラスティックで固められ、臭いもしない人体標本を見た時、私たちはどう感じるだろうか。
 私は、今年の夏、新潟で開催された「人体の不思議展」でそのような人体標本を見てきた。この展示会は数年前から各地で開催されているので、私は2年前にも同じ展示会を東京で見てきた。もちろん、展示されている人体標本は全て本物で、もとは生きていた人間である。
 しかし、私は2年前に初めて人体展でこれらの標本を見たとき、何も感じることができなかった。唯一感じたことといえば、医学的に「人間の体の中はこうなっているのか」ということだけで、他は気持ち悪いとも怖いとも何も感じなかったし、自分がこのような姿になるということも考えることはできなかった。もし、この標本になった方々と生前なんらかの関係があった人ならば、何か感じることもあるのかもしれないが、本当に何も感じなかった。
 医学分野の教養という目的もあったが、本物の死体を見るということで、何か哲学的に感じること、得られることがあると思っていた私は、死体を見たということよりも、何も感じなかったことにショックを受けた。
 そして今年の夏、人体展が新潟という庄内から近い場所で開催されるということで、もう一度行ってみたのだが、今回も、何も感じることができなかった。一緒に見に行った友人も、怖いとも気持ち悪いとも言わず、ただ標本を観察していた。多くの見物人の中に子供たちもいたが、誰一人騒ぐ者はおらず、皆静かに標本を見ていた。
 こうして気づいたのが、死後に加工された死体からは、生前生きていたということが想像しにくいため、怖いとも気持ち悪いとも感じないのではないかということだ。
 すなわち、標本になってしまった死体は、少なくともその死体と生前関わりがない私たちにとっては、それはもう人間ではなく「もの」として捉えられてしまうということだ。死してなお人の役に立ちたいという意志からこうして標本になったと思われる方々にとってはあまり良い言い方ではないのだが、そうとしか考えられなかった。
 だから、死後だけを見つめるだけでは、死を覚えることはできない。
 死者が生者であるときから共に過ごし、死の瞬間、もしくはその直後も共に過ごさなければ、死というものがどういうことであるのかを知ることはできない。
 私自身も、物心ついてから、身近な人の死を3度程見てきたが、そのたびに共通していたことは、死んだ直後、火葬される前までの彼らの死体を見ては深く悲しみ、号泣したが、火葬されて炉から出てきた灰になった人骨を見たときは、既にそれは私の知っている彼らではなかったため、呆然としたことだ。



(次の節への導きとして)
 自分の死は、体験することがないのだからと割り切ることができる。
 しかし、私は、私と関わりのある人が死ぬということを、未だに恐れている。
 家族や友人が死ぬということが、悲しくて怖くてたまらない。
 例えどんなに多く死の教育を受けたり、死について研究した人であっても、人生の永遠の惜別という出来事が
悲しいと思わない人はいないだろう。


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【2005/09/17 16:43】 死生学・生命倫理 | トラックバック(1) | コメント(-) |

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「人体の不思議展」行きました?

人体の不思議展、結局新潟開催分にも行けず。今月末までやっていると聞いて、26日が休みだったので、行けるかなと思っていたら…開催は25日まででした。ってことで。福岡でも行き損ねたし。まぁ、ずっと、昨年から疑問に思っていることもあったので、行くに踏み切れないとこ What a wonderful...【2005/09/24 02:13】

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