メンソール・メンソーレ
いつか死ぬその日のために、今をひたすら生きているヘタレ大学生の肥溜めブログ。

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【良いこととはどのようなことか。どうしてそれが良いことと言えるのか。】

1. はじめに
 以下は『思想の世界』(1)というインターネット上のサイトの「現代倫理学概説」からの引用である。


「倫理学とは、簡単に言えば、『何が善で、何が悪か』の善悪の基準を問う学問です。
しかし善悪の基準を問う問いというのは、私たち人間がもっているさまざまな問いの一つというよりも、人間の行為を前進させるための必要不可欠で、最も根本的な問いに他なりません。
 『良いことが何か』を知らずに『より良い生』を営むことができないからです。
 そして、人はだれでも、自分自身とその環境を開発しなければならないという宿命を背負って生きていますが、その宿命的な開発の方向を決定づけるのが倫理学だからです。
 倫理学は、方法論的には、他の諸学問と同様に、それを客観的に考察する学問ですが、今日、私たちは、ほとんど無数といってもよいくらいの倫理学に出会います。
 科学や学問の発達にともなって、医学倫理、生命倫理、政治倫理、社会倫理と個人倫理、状況倫理、宗教倫理、などなど、各々の立場や分野で『倫理』と名のつく言葉が数限りなく生み出されてきました。
 しかし、それがどんなものであれ、倫理学の構造は、『倫理』という言語概念によって、おおまかにではありますが、枠づけられています。」



 それでは、善悪の基準はどうやって決めるのか。私たちはどのように善悪を認識しているか。そして、「良いこと」「悪いこと」とはどういうことなのかについて、哲学的見解を交えつつ、探ってみることにした。


2.常識と善悪の認識
 現代でいう善悪とは、社会一般の「常識」の中に存在しうるものである。
 昔話や宗教的な天使と悪魔、正義のヒーローと悪者など、私たちが無意識に善悪と認識しているものも、良く考えたら、その線引きはどこにあるのだろうか。
 善悪というものは、人間が日々の生活の中で、社会を形成していくうちに出てきた「道徳」や「モラル」に伴い出てきたものである。
 善悪の認識は、国、思想、宗教、環境、習慣などで異なる。それは同時に常識の捉えかたの違いになる。
 例えば、イスラム教徒は豚肉を不浄なものとしているため、食べない。インドでは、左手は不浄の手としているため、食事は右手で食べる。マサイ族は、ほぼ裸に近い状態で生活している。韓国では、犬を食べる。
 このように、所変われば常識も変わり、時代も変われば常識も移り変わっていき、個々の思想などが自由になっていくと共に、認識も多様化していった。それにより、時に常識から大きく外れた常識観念が出てくるようにもなった。
 アメリカで、電子レンジで猫を乾かそうとしたところ、猫が爆発して死んでしまったので、「電子レンジで猫を乾かすなと書いてない。」と、電子レンジの製造業者を訴えた例がある。
 また、ファーストフードの食べすぎで太った人が、肥満になったのはファーストフードが高カロリーだからだと、某ファーストフード業者を訴えた例もある。
 私たちの常識では、考えられないような話だが、彼らにとってはそれが常識なのだ。
 この2つの訴訟、どちらも原告側が勝っているが、「電子レンジで猫を乾かすな。」と注記しなかった電子レンジ業者や、高カロリーのファーストフードを提供したファーストフード業者が真の悪者というわけではない。
 善悪の認識は、多様化した常識の中では、判別が難しくなってきている。


3.善悪の矛盾性と犠牲論
 物事の善し悪しを語る場合、「言い訳」というものが出てくる。
 良いことをするためには、何か犠牲を払わなければならないという場合である。
 例えば戦争はどうだろうか。愛する自国を守るため、他国の人間と殺し合いをするというこの行いは、良いことか、それとも悪いことか。
 現代の日本では時代と共に国政も変わり、戦争は「良くないこと」として認識されつつある。しかし、戦前の日本のように、戦争を「正義」として認識している国もまだある。もしくは、「正義のためにはやむを得ないこと」として認識している国もある。
 加藤尚武は、自著である『世紀末の思想』(2)の中で、「正義の戦争」という観念は、キリスト教によって形成されたものであると言っている。
 正義のために戦うことはよしとしても、その戦いによって行われる殺人という行為が許されるわけはない。
 講義の中でもディスカッションした、「自分の姉がイラクへボランティアに行きたいと言ったらどうするか。」という議題でも、人を救うためにボランティアするのは良い、しかし、戦地という危険な場所に行くことで、人質に捕られて脅されて殺されたり、助かったとしても政府や株価に影響を及ぼすなどして、世間に顔向け出来なくなったりしたらと考えると、行かせたくないという意見が出た。
 また、森鴎外の小説『高瀬舟』(3)の中で、主人公は、病気の弟が自ら包丁を喉に刺し、「苦しいから早く抜いて死なせてくれ」と懇願するので、包丁を抜けば喉笛が切れ、出血多量で弟は死ぬが、弟を楽にさせたいがために、包丁を抜いた。その結果、弟は死んでしまい、主人公は殺人罪で島流しにされた。このケースには、生命倫理が絡んでくるが、この主人公の行いは果たして愚行だったのか。
 このように、善悪とは実に矛盾していて、一概に区切ることはできないのだ。


4.善悪とフィランソロピー
 私は専門演習で哲学や生命倫理について学んでいるので、フィランソロピーについても触れておく。
 講義ではフィランソロフィーと言っているが、語源であるギリシャ語の正しい読み方はフィランソロピーになる。
 フィランソロピーPhilanthropyの語源は、ギリシャ語で「人間」の意であるアントロポースAnthoroposと「愛する」という意味のフィレインPhileinの2つの語句から出来ている言葉で、そのまま訳せば「人間愛」「人類愛」「博愛」などとなるが、これは「個人と企業による社会貢献」即ち「公益活動」の意である。
 もし、私たちが善悪を誤って認識したり、常識から外れた善悪の見方をしたまま公益活動をしたら、それは公益活動にはならないだろう。
 ならば、公益活動は、「良いこと」を見極めるために重要な役割をしているのではないか。
そう考えれば、「良いこと」とは「公益活動」ということになる。
 そして逆に考えれば、自分勝手に私益だけを求めていくことは、公益活動ではない、つまり、「良いこと」ではないので、「悪いこと」になる。
 単純な見解だが、私の中での哲学では、「良いこと」と「悪いこと」はそれぞれこのように認識されている。


5.まとめ
 人間を客観的に見た時に、私たちは瞬時にそれが「良いこと」であるか「悪いこと」であるかを決め付ける傾向にある。
 そして、その中に秘められた事情を知った時、その判断を意外と簡単に覆してしまうこともある。
 善悪のパターンにも、自分にとっての善悪、相手にとっての善悪、特定できない誰かにとっての善悪があり、その判定は難しい。
 人は誰でも、幸せになる権利を持っている。加藤尚武も「豊かさを求める正当性とは何か」と問うている。
 こうして善悪について考えることは、公益的だし、哲学にもなるので「良いこと」であり、何も考えず生き方をよりよくして行こうという意欲がないことは「悪いこと」ではないか。
 つまり、善悪とは、倫理的に考えて、哲学しないことにあると考えられる。
 自分の生き方を公益的によりよくしていこうという気持ちが善を生み、自分勝手に私益だけを求めようとする気持ちが悪を生むのだと、私は考える。




 2で述べている訴訟は実際にはないみたいです。
 都市伝説らしいので、信憑性は低いです。
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【2005/08/23 23:11】 公益 | トラックバック(0) | コメント(-) |

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