メンソール・メンソーレ
いつか死ぬその日のために、今をひたすら生きているヘタレ大学生の肥溜めブログ。

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就職、早く決めたい。でも、決めたくない。

 某ドラッグストアから、この間の面接の結果が届きました。
 履歴書と諸書類が同封されていたことから、文書を読まなくても、
 それがどういう意味を示すのか、私にはすぐわかりました。
 でも、一昨日の夜、面接で提出できなかった健康診断書送ったばっかなんだよね。
 それも返してくれるのかしら?


 そんでまぁ、実は内定もらえなくて、ちょっと安心してる自分がいたりします。
 この会社で一生勤めていくっては考えてなかったから。
 もし、内定もらっても、多分他にやりたいことがあるって言って、
 断ろうと思っていたから。
 そういうの、見透かされないようにはしていたけど、
 やっぱわかってしまうのかもしれませんね。


 母に「ホントは葬儀関係がやりたい」ということを話したら、
 親類たちに聞いてくれるって言ってくれました。
 もし、葬儀屋ダメだったら、やっぱ仙台移住して、もうひとつの
 やりたい仕事のバイトをしながら、その社員を目指したい。
 それもどの会社で、っていうのが明確に決まっていたりします。
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【2005/08/31 11:22】 就職活動 | トラックバック(0) | コメント(-) |

日本の政治は聖戦(ジハード)ですか?

 9月11日はなんの日でしょうか?
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【2005/08/30 12:20】 社会 | トラックバック(0) | コメント(-) |

飯森山は「めしもりやま」ではなく「いいもりやま」と読む

 昨夜、飯森山付近で死体が発見されました。
 ソースはコチラ。(やまがたニュースオンライン
 いやぁ、よりによってうちの大学の近くかよ。
 そして昨夜かよ。
 昨日の夕方、死体発見現場をモロに通った気がするんですけど。
 てことは、その時まだ死体埋まってたってことよね・・・。
 怖すぎ!!!!!
 いやー、地元でもこういう事件てあるんですねー。
 しばらく平和だなーと思っていたんですけど、ついに来たかーって感じです。
 しかも重機使ったのに穴1mしか掘らなかったのか。
 まぁ、それはどうでもいいけど、犯人である兄の早急な処罰と、被害者である弟さんのご冥福をお祈り申し上げます。
 あー、夏休み明けまでには現場検証とか終わってるといいなぁ。
 そりゃやっぱ嫌だよね、自分の大学の近くで殺人事件とかあったら。
【2005/08/30 12:00】 地域社会・地元 | トラックバック(0) | コメント(-) |

昨日の雷

 すごかったです。
 光が丘のほうとか、自分のバイト先まで停電しました。
 うちは大丈夫だったんですが、近くに落ちた音しましたからねぇ。
 明らかに音が違うんですよ。
 バシーン!て感じの。
 もうすぐ台風の季節も来ますね。
 そしてゼミの合宿が近いわけで・・・。
 何もやっておりません。
 あー、激しい一過性の雨のあとって嫌んなるぐらいいい天気というか、
・・・・・暑い!!!
 海行きたいけど流石にもう泳げないよね?
【2005/08/30 11:41】 地域社会・地元 | トラックバック(0) | コメント(-) |

ブログお掃除のお知らせ。

 この度諸事情により、ブログのお掃除をさせていただきました。
 今までコメントやトラックバックを下さったたくさんの方々に
 多大なご迷惑をおかけしたことをお詫び申し上げます。


 なお、今後の方針として、コメントは受け付けず、
 トラックバックのみを受け付ける形での運営になりましたことを
 ご案内申し上げます。


 感想等はメールもしくは閲覧してくださる皆様の各サイトにてお願い致します。
 私がそのコメントを見つけた場合は、出来る限りお返事致します。


 このブログは私が大学で提出したレポート等のアップを
 メインコンテンツとしております。
 ブログでのトラックバックによる転載等は歓迎しております。
 どんどんトラックバックしてやって下さい。
 ブログでなくても、サイトにて「こんな記事読みました」みたいな
 紹介等による転載もOKです。


 それでは、新生メンソール・メンソーレをこれからもどうぞ
 よろしくお願い致します。
【2005/08/24 00:09】 未分類 | トラックバック(0) | コメント(-) |

新卒採用について思うこと。

 何故新卒採用でなければならないのか、と考えています。
 私は、フリーターになるのが正直怖いです。
 浪人するっていう経験も今までしたことがありません。
 だから、ずっと糸を切らさずに紡いできたわけです。
 バイトもそうです。
 別のバイトをしようと何度も考えました。
 でも、バイトに依存しすぎて、バイト切り替える間があいて、
 収入がなくなることをひどく恐れて、結局ずっと今のバイトをしてきました。
 きっと私が求めているのは、その「安定性」ということなのでしょう。
 それから、大卒と高卒の給料が同じだったらなんとなく嫌、みたいな
 変なこだわりもあったりなかったり。
 でもこれは優先事項すごく低いから、単に心の中で微妙にひっかかってるだけ。
 でも、自分の中では、やりたい仕事があって、バイトから社員になれるのなら、
 フリーターになってもいいかなと思ったりしてるんです。
 あるいは、とりあえずどっか新卒で就職してみて、それから考えるとか。
 でも、私は心が弱いから、どんなに嫌でも「辞めます」って言えないんです。
 今のバイトもそれで何年間も続けてきたから。
 まぁ、嫌なことばかりじゃなかったから続けてこれたんでしょうけどね。
 ただ、一度入社した会社に「他にやりたい仕事があるので辞めます」って
 言うのは、会社側に対してすごく失礼だし申し訳ないと思ってしまうので。
 将来を見込んで教育し始めてるのに、会社に貢献もせずに辞めてしまうのは
 どういうことだー!って絶対思うよ。
 自分もバイトでマネージャーとして働いてて、トレーニング段階のバイトの子が
 「他にやりたいことあるので辞めます」とか言われた時、
 「あーこいつはぜってー何やっても長続きしねーよ」とか思うし、
 「せっかくトレーニングの時間つけてやってんのにこの給料泥棒め」とも
 思ってしまう。
 だから今、どうしようかすごく悩んでます。
 今一番入社したい会社が、新卒採用をとってないので、フリーターから
 始めようかと思ってるんですが、親は「せっかく大学に入れたのに」と
 がっかりするだろうと思うと、なんか申し訳ない。
 でも、キャリアというのを少し勉強してみたいです。
 それで、将来は自分の会社を作りたい。
 将来っていっても、40とか50になってからじゃなくて、できれば20代のうちに。
 だから、私には今いろんなことやる時間が必要なんだ。
 1年ずついろんな仕事経験してみて、27か28くらいまでには起業したいです。
【2005/08/23 23:44】 就職活動 | トラックバック(0) | コメント(-) |

わかりやすい死生学の本

 エンディングプランナーのつぶやきさんは、
 とても充実した記事が多いです。
 AERAムックの『死生学がわかる。』は、私も先輩に借りて読んだことがあります。
 やっぱり一般の人向けに書かれているので、読みやすいんですよね。
 私も本当に一般人で、難しい本ってのは読むのが大嫌いですから。
 で、うちの間瀬先生の本も、すごく読みやすい。
 先生は一般の人にも読めるようにわかりやすく書いてくれるから。
 だから、先生の本を読んで、先生のゼミに来たんだと思う。
 でも、先生は、同じ学者さんたちからは、「こんなの論文じゃない」って
 論文を辛口で批評されることもあるんだって。
 なぜかというと、一般の人にもわかりやすい言葉や表現を使っているから。
 わかりやすいほうがいいじゃないか。
 論文は専門家ばかりが読むわけじゃないんだぞ。
 特に、死生学なんてのは、一番一般人に関係ある分野じゃないか。
 人は100%必ず死ぬんだから。


 さて、話が微妙にそれちゃいましたけど、他に死生学関連で
 わかりやすそうな本をちょこっとだけ紹介しましょう。


 間瀬啓允『生命倫理とエロコジー』

 これは私が大学で死生学をやろうと思ったきっかけになった本。
 わが師である間瀬先生の本です。
 この本は死生学というよりも生命倫理を考えるための本かな。
 もし、自分が植物状態になった時、延命措置を行うかとか、
 あと、エコロジーっていうか、自然についての話もあります。
 生命中心主義っていうのかな。
 いのちについて考えようっていう本です。
 他にも間瀬先生はこんな本とかも書いています。



 小谷みどり『こんな風に逝きたい』

 これも私が現在進行形でオススメする本。
 お葬式とか、ライフプランについて考えています。
 本当に身近で一般的で、読みやすいです。
 うちの大学の大学院のほうに非常勤講師として来てくださってるみたいです。
 この間、間瀬先生の講義で外部講師としてお話してくださったので、
 聴講させていただきました。
 小谷さんは他にもこんな本も書いています。



 AERA mook『死生学がわかる。』

 身近な生と死についてわかりやすいコラムがたくさん読めます。
 最初はこのあたりから入ったほうがいいかも。
 とても読みやすいです。



 少しは参考になりましたでしょうか?
 もし、皆さんのオススメの死生学の読みやすい本がありましたら、
 私にも教えてください。
 どうも難しい本は苦手で・・・。
続きを読む
【2005/08/23 23:43】 死生学・生命倫理 | トラックバック(0) | コメント(-) |

貧困について腹出して考えてみた


ほっとけない 世界のまずしさ




 「お金ではなく、あなたの声が必要です。」だそうです。
 全国の主要書店とかで、ホワイトバンド300円で売ってます。
 このホワイトバンドがめちゃくちゃかわいいの!
  * * * (アスタリスクかな?お花模様に見える。)がかなり(・∀・)イイネ!!
 シンプルだし、アクセとしても良さそう~!
 しかも300円だし。
 安いし、欲しいYO!


 なんか貧困から人々を救うためというより、ファッションとしてコレが
 欲しいみたく書いちゃってますが、一応キャンペーンの紹介です。
 詳しくは上に貼ったバナーから見てみてくださいまし。


 24時間テレビとかだと、Tシャツ1000円とかじゃん?
 イベントTシャツなんてそれ以降は家で着るしかできないし、
 1000円だと買うのためらうよねー。
 でも、リストバンドなら手軽だし、しかも300円で安いから、
 買おうかなーみたいな気になると思う。
 しかもデザイン的に優れている!
 キャンペーン臭さもない!
 この方法は画期的だと私は思うよー。


 そしてそれゆえに品薄状態が続いているようです。
 近くで売ってるとこないかなーと思って、全国販売リスト書店見たら、
 庄内に全くないじゃないの・・・。orz
 ショックだわぁー。
【2005/08/23 23:39】 公益 | トラックバック(0) | コメント(-) |

郵政民営化法案否決@個人的見解

ミミ彡  ゚̄ ̄' 〈 ゚̄ ̄ .|ミミ彡  正直、マジギレした。



 小泉ちゃん可愛そうだ・・・。
 さぁ、今こそ反対派を自民党から排除するんだwwwwwww


 まぁ、個人的にはちょっと(´・ω・`)ガッカリ・・・程度なんですけどね。
 tu-ka反対する人の気持ちが私にはわからんので。
 民営化したら多少は営業時間の融通とかも利くだろうし、
 新たなサービスとかもできそうな気がするのですが・・・。
 それに、もうすでに「郵政公社」って名前になってるじゃないですか。


 んで、国鉄→JRになったし、電電公社→NTTになったわけなんですが、
 それって実際のところどうなの?
 私は国鉄や電電公社の時代は知らないけど、やっぱ便利になったんじゃ
 ないのかなぁ~?と思うんですが。


 まぁ、私個人の意見としては、これからは公務員とか国会議員とか、
 税金からお給料もらってる人を少しずつ減らしていきたいとか思うわけですよ。
 そんで、それをNPO法人にしちゃうの。
 そしたら利益追求しないから、半ボランティアになるわけっしょ。
 で、とっても公益的。
 だってさ、



 ほんとに日本を良くしたいと思うんなら、
 ボランティアだっていいと思うはずだもの。



 正義のヒーローってのは見返りを求めないから人々から愛されるのよ。
 それ以前に、議員とかって報酬多すぎると思うの。
 高額のお金がもらえるからこそ、賄賂とか汚職事件とかもおきちゃうのよ。


 あと、議員も公務員と同じように、試験とかやればいいと思う。
 有名度が高ければ議員になれるのっておかしいでしょ。
 今日否決の様子見てたら、お笑いマンガ道場の元司会者も議員になってたし。
 しかも微妙に眠そうだったwwwwwwwwwww
 あと、ガッツ石松とか、芸能人としてはあのバカっぷりがとても好きだけど、
 あんだけ頭バカなのに議員になっちゃうってのはちょっとwwwww
 「NG」を「んぐ」とか言っちゃう男だぜ。
 絶対あれは計算ではなく天然ボケだと心から思う。


 それから、3月くらいになると、予算を減らされないように、
 予算を使い切ろうと一斉に道路工事とかやたらとやってるっぽくね?
 個人的に、予算を無駄遣いしない都道府県市町村にこそ、どうしても
 必要になったときに、高額を援助してあげるべきだと思うよ。
 無駄遣いするとこにばっかりどんどんあげちゃってどうすんの。
 とか思うわけです。


 天皇という存在も、いつまでも残しておかないほうがいいと思うのだ。
 雅子様だってストレスたまってるじゃんか。
 愛子様だって、みんなかわいいかわいいって言ってるけど、
 それって皇室のお子様だからじゃないの?
 まぁ、将来美人になるかもしれないけどねー。
 皇室の人間だからっていろいろ制限されてて、ほんとつらそう。


 これから、日本が戦争をすることは絶対無いってみんな言うけど、
 いつ戦争が始まってもおかしくないぐらい殺伐としてるし、
 第一日本って北朝鮮とアメリカの間に位置してるじゃんwwwww
 日本の頭の上を核ミサイルが行き来することもあるだろう。
 日本は唯一の被爆国だけど、これからの時代は戦争を知らない子供たちが
 どんどんと増えて行って、戦争を知らない人しかいなくなっちゃうんだ。
【2005/08/23 23:37】 公益 | トラックバック(0) | コメント(-) |

人体の不思議展in新潟

 2年くらい前、東京で初めてこの人体展を見ました。
 でも、その時はこれらの標本が全く死体だと思えず、
 何の収穫もなく、ただ淡々と見て来ただけでした。


 で、また近くに来たら絶対見に行って、今度こそ卒論に
 役立てるんだー!と意気揚々と会場に入ったのですが・・・





 あああこれじゃもう前回と全く同じだよ!



 何がって、私の頭の中が。


 だって、どう見たって作り物としか思えないんだもの。
 触っても間近で見ても全然これが生きてた人間だったなんて思えないの。
 死生学のために行ったのに、また今回も何の収穫もなかった。
 本当に何とも思わなかった。
 こんなんじゃ2度も見に行った意味がないじゃないか!



 とりあえず、「このような形になってしまうと何とも思わなくなる」ということだけがわかりました。
 死体なのに・・・肉片なのに・・・どうして何とも思わないんだ。



 そういえば、何かで「生きてる人間が一番怖い」と誰かが言っていた。
 私もそうだと思った。
 生きてる人間が一番怖いんだよ。
 だから、死にたての死体は生きてた感があるから怖い。
 でも、死んでから標本になっちゃった死体は生きてた感がないから怖くない。



 あああ、こんなんで卒論書けるのかな・・・。
 仙台市で寄った大きな本屋さん(ジュンク堂書店)で、
 『弔いの哲学』(小泉義之 著)

 って本を買ってみたよ。
 これ一冊で卒論書いてみっかー。
【2005/08/23 23:33】 死生学・生命倫理 | トラックバック(0) | コメント(-) |

某ファーストフード会社の未払いの件について。

 もうここで6年バイトしてるんですけどもね。
 例の未払いの件で、今後は1分単位での計算になるんだそうです。
 で、社員はなるべくバイトに金やりたくないから、

 
 INはギリギリまでやるな。


 と


 UPはすぐにしろ。
 

 と言うわけです。
 正直ストレスです。
 クローズの作業でも二度手間で大変めんどくさいです。


 時給体制見直すんだったら、別に1分単位じゃなくてもいいだろ!
 10分単位で十分だと思う。
 今回の時給体制の改正は、こないだの価格変更に続いて、バイトを精神的に追い詰めてると思う。
 ストレスたまりまくり。
 そしてもうこの会社はダメだな、と思った。
 社長や会長が変わってから、どんどんダメになってきてる。
 株もすんごい下がりまくりです。


 
 祇園精舎の鐘の声
 諸行無常の響きあり
 沙羅双樹の花の色
 盛者必衰の理を表す
 奢れる人も久しからず
 ただ春の夜の夢の如し
 たけき者も遂には滅びぬ
 偏に風の前の塵に同じ



 みんないつかはそうなるのさ。
【2005/08/23 23:28】 バイト | トラックバック(0) | コメント(-) |

安くお葬式を行うために

●葬儀社に依頼するのではなく、自治体葬で!
自治体葬なら、葬儀社のようなセット料金ではなく、1つ1つの料金設定があり、そこから必要なものを選択することができる。
 → 余分なものを省くことにより安価になる。


●シルバー人材センターに運営をお願いする。
 シルバー人材センターとは、定年を迎えた方や家業を子供に譲られた方で、もう就職は望まないが健康や生きがいのために仕事をしたいと考えている方々に対して、一般家庭や民間企業、官公庁等から高年齢者に向いている仕事を引き受け、提供している公共的、公益的な団体のこと。
 → 収益を目的としていないので料金が割安


●式の司会進行は自分たちで。
 人件費節約・心のこもったお別れができる。


●式に必要な道具、また会場を選ぶ。
 例えば棺など。木製の棺が一般的だが、それに布をはって装飾してあるものだと数万円高くなる。
 また、環境にやさしいダンボール製の棺もあるが、これはまだ量産できてないので安そうで実は割高。
 祭壇なども、やたら大きい物にしなくても、小さい祭壇で十分。
 斎場も、親族のみで行うこじんまり葬なら、自宅もしくは小さめの斎場で。
 大きい斎場しかない場合は、控え室を斎場として使わせてもらう。
 → ワンランク下のものを選ぶことで、経費節約。
※ 親族のみでしか行わない場合は、親族以外への配慮も必要!(手紙でその旨を知らせる等)


●お墓も必要最小限の大きさで。
 お墓も広さ、墓石、位置などで価格が違ってくる。
 お墓の敷地も数十センチ違うだけで半額ほど違ってくる場合があるし、墓石も中国製の意思を使うと安い。
 また、出入口や水汲み場に近い場所は一般的に割高。
 お墓ディレクターに相談するのも手。
 墓石の代わりに植物の苗木でお墓を作ることもできる。(樹木葬)
 しかし、自治体が墓地と認定した区域でなければ遺骨の埋葬はできないので注意。
 (日本初の樹木葬墓地は岩手県一関市にある。)


●自然葬 遺骨を細かく砕いて撒く。
 ただし葬送に関する法律で「焼骨の埋蔵、埋葬は墓地以外の区位置で行ってはならない」とあるため、雨などで遺灰が土に埋まってしまわないように気をつけなければいけない。
 海なら「埋まる」ということがないため、海に散骨するケースが多い。
 ちなみに海に撒く場合、沖のほうまで行かなければならないため、フェリー等を出してもらうと費用がかかる。
 その場合は「葬送の自由を進める会」の会員たちで合同葬を行うと割安。
 ※自然葬を行う場合は「相当の節度」を持って行うこと!
(例えば海水浴場の近くに撒かない、遺骨を細かく砕いて遺骨とわからないようにする等)




 他にも、参列者に出す食事も、故人が好きだったものをみんなで食べたりするなど、遺族が主体となってお別れの仕方を考えることにより、心のこもったお別れができる。
 また、旅立ちの衣装を生きているうちに用意しておいたり、式の時にこの音楽を流してほしいなど具体的な希望をノートに書いておくなど、元気に生きているうちから自分で葬儀プランを考えることを推奨。
 そして、それを家族に知らせ、理解してもらうことも大切。



【参考文献・資料】
小谷みどり 『こんな風に逝きたい―ホスピスからお墓まで―』 講談社 2003年

NHK総合「難問解決 ご近所の底力」より「大解決! 葬式とお墓の悩み」(6/16放送分)
http://www.nhk.or.jp/gokinjo/

【2005/08/23 23:23】 死生学・生命倫理 | トラックバック(0) | コメント(-) |

葬のスタイルの自由と法律

日本の葬
 最近では葬儀の多様化に伴い、自然葬(形式ばった葬儀をせず、火葬後遺灰を土などに散骨する)を望む人も多くなってきている。
 ここで問題なのが、海や土に遺灰を撒いていいかどうかということだ。
 散骨することは、刑法190条の「死体、遺体、遺髪又は館内に蔵置し足る物を損壊、遺棄又は領得したる者は3年以下の懲役に処す」という項目に触れるのではないかと懸念されてきたが、散骨に対してさまざまな団体が取り組み、社会的な要請が高まる中で、法務省は散骨に対し「節度をもって葬送の一つとして行われる限りは問題はない」との見解を表明した。
 これは自然葬としての散骨が「死体遺棄」ではなく、「葬送の一つとして」認められたということだ。
 しかしここで「節度をもって」とあるため、一般常識の中で他人に迷惑をかけないように、以下のような点に注意しなければならない。
1.そのままの形で散骨しないこと。
2.遺骨とは分からない程度に粉末化(一般的には2mm程度以下)すること。
3.他人の所有する土地には散骨しないこと、あるいは了解をとること。
4.環境問題に配慮すること。
 また、日本では火葬が一般的であるので、土葬は法律で禁止されていると思われがちだが、実は土葬は法律では禁止されていない。
 茨城県の一部や、多摩川の水源地である山梨県丹波山村などは土葬地域である。
 しかし、東京都や大阪府などの大都市は条例によって土葬を禁じられているが、法律上は火葬も土葬も平等に扱われている。


世界の葬
 世界中で行われている葬のスタイルとして、火葬や土葬の他にも、水葬や鳥葬などがある。
 水葬はガンジス川流域でよく行われている、遺体を川や海などに流す方法である。
 現在の日本では水葬は原則禁止である。
しかし、例外として船員法15条に基づいて、船舶の航行中に船内の人間が死亡した時に水葬が行われることがある。
 鳥葬は、遺体を鳥に食べさせるという方法である。
 チベット密教にて行われるのが有名である。またパールスィーと呼ばれるインドの拝火教徒も鳥葬を行う。
日本国内で鳥葬を行うと、刑法190条の死体損壊罪で処罰される。
 国や宗教などによって、葬のスタイルは本当に様々であり、葬の倫理というものも違うため、様々な見解がある。
 日本は死に対してのタブー色が未だ濃く、自然葬を行う人も増えてきてはいるが、まだ少数であるし、遺体に対して「気持ち悪い」や「グロテスク」という感じを受ける人が一般的であるので、他人に対して迷惑がかかるのではないかと考え、思い通りの葬り方ができない人も少なくない。


感想  
「日本人はお墓がないと死ねない」と言われてきたが、これでは深刻的な墓地不足になり、だんだん日本の土地は墓地で埋まってしまい、生きている人が暮らせる場所がなくなってしまう。
 死者は死者だけで墓地という区域に隔離するのではなく、死者と共に生きていく配慮が必要だと感じた。
 死者の生前の意志を尊重するためにも、自然葬に関して多くの人が理解し、自然葬を行う際には、寛大になって欲しいと強く願う。


参考文献・資料
●「葬送の自由と法律」 梶山正三
(『葬送の自由と自然葬』 山折哲雄・安田睦彦 著  葬送の自由を進める会 編 2000 所収)

●フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 http://ja.wikipedia.org/
●海洋散骨・自然葬 やすらか庵 http://yasurakaan.main.jp/
●「墓地、埋葬等に関する法律」

【2005/08/23 23:19】 死生学・生命倫理 | トラックバック(0) | コメント(-) |

「公益法人論」の講義の感想。

 私は、公益法人というと、ボランティア団体のような、善良な団体ばかりだと思い浮かべていました。
 しかし、その公益法人が、高級官僚の天下りのために作られてるものもあるという事実を知って、なんだかすごく見方が変わりました。
 公益とは、世のため人のための社会的な利益であるはずなのに、その日本を仕切っている上の人間だけがいい思いをするのは、絶対間違っていると思います。
 公益法人を、自分たちの都合のいいように扱わないでほしいと思いました。
 北沢先生がおっしゃっていた公益の定義も、人間と人間・人間と環境の調和というものでしたが、現代社会ではごく一部の小さな集団だけの利益という感じしかしませんでした。
 やはり、国民が一丸となって社会をより良い方向へ持っていくには、国民ののまとめ役をしている人間がしっかりと公益についてよく理解し、それを本当の意味で実行しなければいけないはずです。
 それができていない現代日本では、公益法人はあまり意味を成していません。
 それどころか、公益法人について、あまり広くは知られていないと思います。
 おそらく違う名前では一般的に知られていても、公益としての存在は、なかなか人々には知られていないと思います。
 それは、きっと、多くの人がまだ公益について知らないからです。
 多くの人々は、公益よりも、私益を求めていると思います。
 国のトップにいる人間が、私益ばかりを求めて、公益法人を利用し、その公益の意味をなくすようなことは、絶対にやめるべきだと思います。
 また、公益的というより公的なものとして、日本郵政公社のあり方についても、今後大きく関わっていくと思います。
 NTT(日本電信電話)やJR(日本旅客鉄道)も、昔は国が運営していました。
 だからこそ、今も広く根付いて、大事業となっています。
 郵政公社も、今後同じような道を辿って行くとしたら、T北K益B科大学はどうなるでしょうか。
 T北K益B科大学は、公設民営です。
 T北K益B科大学から、公益のプロフェッショナルを世間に排出して行きます。
 公設民営のメリットを利用し、公務員など国家関係に多くの学生が就職をしたり、将来的に政治家として活動するとします。
 そうすれば、天下りとは逆の現象が起きるわけです。
 そして同時に、高級官僚の、公益法人を利用しての天下りが防げるようになります。
 もし、そうなれば、国のトップに立つ人間が、公益の精神を持った、公益のプロフェッショナルでありますから、国は自然と公益的に向かって行きます。
 そして、それに国民も、自ずとついてくるはずです。
 そして、天下りのために作られる公益法人はなくなり、公益法人は本当の意味での公益を果たすための法人になります。
 しかし、それは容易なことではありませんから、私たち学生は、公益についてもっとよく理解していくことが大切だと思いました。
 もし、将来的に天下りの逆のことが実現できたなら、それは必ず真の公益になると、私は思います。
 以上が、私が講義を聞いて感じ、新しく発見したことです。
【2005/08/23 23:17】 公益 | トラックバック(0) | コメント(-) |

現代社会と科学技術における生殖医療の発展と考察

 ----- 現代社会において、科学技術とは人々の素朴な疑問の中から生まれ、のちに公益に結びついていくものである。そして開発された技術は、人間の手によって慎重に扱わなければならない。それについて生殖医療の技術の視点から展開して考える。-----


 この講義名が「女性と科学技術」ということなので、女性としての観点から一番身近であると私が考えた「生殖医療」を中心として、現代社会における科学技術のあり方と、これからの科学技術への期待について論じようと思う。
 生殖医療を考えるにあたって一番身近なところから探ると、まず、「不妊症」の治療が挙がってくる。子供が欲しいのになかなかできない夫婦にとって、新たな不妊治療の技術は大変望ましいものだろう。
 私は酒田市の市立図書館から関連する本を数冊借りて読んだり、足りない部分はホーム
ページを見るなどして調べてみた。


 現在、世界では人工授精や体外受精、顕微授精、代理出産、ES細胞を使った卵子の作製など、様々な技術が開発されている。
 その中で、日本では配偶者間人工授精(AIH)及び非配偶者間人工授精(AID)、対外授精と顕微受精が認められているが、非配偶者間人工授精における第三者からの卵子の提供や、代理出産は認められていない。また、日本ではまだES細胞を使っての卵子の作製も成功していない。
 数年前、タレントの向井亜紀さんが、子宮ガンによる子宮摘出によって妊娠が不可能になってしまったことから、日本では認められていない代理出産を望み、海外に渡って3回ほど代理出産を試みている。つい先日も、妊娠9週目に入ったホストマザーの経過を見にアメリカに行ってきた(1)という話をテレビのワイドショーや本人のホームページで見た。
 ここで疑問に思ったのは、なぜ、日本では代理出産を認めていないのかということだ。科学技術の進歩に伴い、法律もそれに合わせて改正されるべきであるはずなのに、科学技術だけが空回りして、実用的ではないというのは現代社会において大きな問題であると思う。また、非配偶者間人工授精における第三者からの精子の提供は認められているのに、なぜ、卵子の提供は認められないのかも大きな疑問である。当事者たちが、子供が欲しいと切実に感じていて、場合によっては卵子の提供も望まざるを得ないのであれば、提供を認めるべきではないのか。しかし、この卵子の提供の問題を規制しているのは法律ではなく日本産婦人科学会や日本不妊学会であるという。反対意見も根強くあるのだが、これを認める方向には難色が示された。(2)
 代理出産においては、様々な問題が伴ってくる。少し前に、「愛しき者へ」(3)というドラマがあった。それは、子供を妊娠することが出来ない女性が、多額の報酬を条件に、第三者の女性に自分の夫との子供を産んでもらうという内容のドラマだ。このドラマは体外受精による代理出産の話ではなく、自然受胎の代理出産の話であるが、不妊症の女性のいたたまれない気持ちや、代理母を務める女性の複雑な気持ちについてとても考えさせられる。
 また、生物学上自分の遺伝子を受け継いでいない子供が生まれた場合、例えそれが自分たちが望んで産んでもらったのだとしても、虐待や育児放棄をしたりする親が出てくる。そのような問題が懸念されるため、日本では代理出産の解禁に踏み込めないのだと考えられる。
 それに、いくら科学技術が進んだと言っても、受胎は1人ではできないものである。それはパートナーや家族など、周囲の人間の協力によって成り立つものである。昔は子供のできない女性は不産女(うまずめ)とさげずまれ、一方的に悪者にされてきた。もともと不妊症ではない女性も、そうやって姑などから責められることによって、精神的な面から不妊やセックスレスになってしまったという場合もある。また、男性側も、不妊の原因が自分には絶対無いと思い込んで、女性側に原因を押し付けたり、周囲の人間が「まだ子供はできないの?」と何気なく言ったりすることで、女性をだんだんと追い込むこともあるという。(4)そういうメンタルな面は科学技術ではどうすることもできないので、もっと多くの人が不妊や現代の科学技術について広く知ることが大切だ。


 また、最近では、遺伝子レベルから生まれる前に病気の要因を取り除いたりする技術が開発されてきている。こうして遺伝子を組み替えたり改変したりする技術は、のちに「自分が望む通りの子供」を手に入れることにつながると考えられる。そのような親のオーダー通りに生まれてくる子供を、英国リーズ大学の生殖生物学教授であるロジャー・ゴスデンは「デザイナー・ベビー」と呼んでいる。(5)
 私はこの「デザイナー・ベビー」が容易に得られるようになることに、少し恐れを感じる。人間は自然的に発生して、どんな風に生まれてくるかは誰にもわからないというところが神秘であると考えているからだ。そんな人間の神秘を人間が打破していくということが、少し悲しい。技術によって何もかもが計画されて生まれてくる人間は、人間というよりも、ロボットなど、機械的なものであるという感じがしてならない。人間によって創られる人間は、人間らしくあってほしいと、私は考える。


 また、生殖の技術よりもはるか昔に、逆の堕胎の技術が生まれていたことを忘れてはならない。堕胎の技術は古典的で、不妊の治療よりもはるかに容易な技術であるが、堕胎手術をすることで子宮が傷付き、不妊症や不育症になってしまったり、身体的にも精神的にも傷付くことがあるというリスクをもっと真剣に考えなければならない。そして、何よりも、堕胎は尊い命を人工的に消し去るという悲しい技術であることをしっかりと心に刻んでおかなければならない。
 しかし、性交は子孫繁栄の行為だとは言っても、それを望んでいない時期でも人間の本能には逆らえないものであるため、性交をしないというわけにはいかない。けれども悲しい堕胎という技術をなるべく必要としないように、今度はバースコントロール(避妊)の技術が数多く生まれた。歯を磨いて虫歯を防ぐのと同じように、堕胎をしないためにもとから防ぐという画期的な技術だと思う。同じくして、医療面全般でも、病気はかかってから治療するのではなく、未然に防ぐという方法が一般化した。現在、健康診断や予防接種、うがい手洗い歯磨きの奨励などで、広く一般的に行われている。


 現在の科学技術では、SF映画やコメディ映画のように機械が母親の子宮の役割をして子供を育てたり、男性の体内で育てたりはできない。しかし、もし、このような技術が開発されたとしても、遺伝子を親の希望通りに組み替えられて生まれてくる生命同様に、自然の摂理に逆らって生まれてきた子供は、果たして幸せだと言えるのだろうか。科学技術の開発は、そのような生命倫理的な部分においても懸念しながら成されるべきであると私は考える。
 もちろん、科学技術は日々進歩していくのが望ましいことだろうし、科学者たちにはぜひそうしてもらいたい。そして科学技術は人々の小さな疑問から展開して生まれてきていることを忘れてはならない。不妊治療の技術においても、誰かが「子供が欲しいのになぜできないのか」と疑問に思わなければ生まれなかったし、バースコントロールの技術においても、人口の増加や経済的なことが原因で子供を産まないほうが良いと思った人が「ではどうしたら誰も傷付かずに受胎調節ができるのか」と考えたからこそ生まれたのではないか。
 現在、生殖医療だけでなく、ナノテクノロジーやバイオテクノロジーなど、様々な科学技術が日々進歩している。いつの日か、科学技術は公益と必ず結びついてくる。そのためには、私たち人間が公益と科学技術について小さくても良いから疑問を持ち、そして自分なりの意見を持ち、互いに伝え合うことが大切だと思う。
 そして、これから開発される科学技術は、人間だけでなく生命全て、地球全土にとって望ましいものであるべきだ。科学技術によって生命そのものや生命倫理的な部分が傷つけられたり、環境が破壊されることのないよう、人間は科学技術を慎重に扱うべきであると、私は考える。


参考文献・資料
注釈(1)『向井亜紀オフィシャルウェブサイト』
     http://www.mukai-aki.com/
  (2)『不妊症 これで安心 -漢方薬から体外受精までの最新情報-』

     佐藤孝道 著 小学館 192ページ参照
  (3)『東海テレビ』ホームページ ドラマ『愛しき者へ』
     http://www.tokai-tv.com/itoshiki/special/index.com
  (4)『不妊症 これで安心 -漢方薬から体外受精までの最新情報-』
     佐藤孝道 著 小学館 16ページ参照
 (5)『デザイナー・ベビー -生殖技術はどこまで行くのか-』
ロジャー・ゴスデン 著 堤理華 訳 原書房



 その他の参考文献
 『図解雑学 男が気になる女のからだ』
  オリンポス 著者 松峯寿美 監修 ナツメ社
【2005/08/23 23:16】 医療・技術 | トラックバック(0) | コメント(-) |

“魂”について

 ゼミ合宿の発表と前期のゼミの発表のときに、“魂”という言葉の使い方や、考え方についていくつか指摘を受けたので、今回新たに“魂”について考えてみた。


 まず、魂という言葉は、どのような使われ方があるだろうか。
 霊魂、人魂、大和魂、侍魂、魂に語りかける、魂に刻む、魂が震える、魂の言葉(言霊;ことだま)、などがある。
 霊魂、人魂というと、墓場にぼうっと浮かんで消える、オバケのようなイメージがある。そして、死んだ人間(生き物)の体から抜け出た霊体というオカルト的な考え方をするだろう。
 大和魂、侍魂などはどうだろう。これは、自分が生まれ持った宿命のようなイメージがある。そして、これは守り抜かねばならない強い信念という考え方ができる。
 他の言葉はどうだろうか。魂に刻む、魂が震えるなどは、魂という言葉を「心」という言葉に置き換えても違和感なく読める。しかし、具体的にどうであるかは言葉では言い表せない。そう、魂とは言葉では言い表せない部分のことを指し示すのだ。魂とは頭で考えるものではなく、心で(あるいは自分の魂で)感じ取るものなのかもしれない。


 では、魂にはどんな呼ばれ方があるのだろうか。
 よく耳にする“スピリット”、“ソウル”など。そして、間瀬先生がよく私たちに言う“メタファー”という言い方。また、ギリシャ語の“プシケー”やドイツ語の“ゼーレ”などもある。
 どれも魂のことを示すが、言い方によっては違う意味で捉えられるのではないか。


 “ゼーレ”、“ソウル”を一般に“魂”と訳す人が多い。
 “魂”と漢字で書くと男性的な感じになるが、ゼーレは平仮名の“たましい”に近い感じで、「体に宿ると命が息づくもの」という意味合いを含んでいる。
 “プシケー”には“たましい”という意味と“蝶々”という意味の両方ある。この場合プシケーはゼーレに近い意味で使われており、「蝶々のようにひらひら舞い、動き回って玉虫色に変わる」という可愛らしくてきれいなイメージとしてとらえられている。
 “スピリット”はどちらかというと、霊(ガイスト)としての意味合いがある。
 日本人にとって「霊」と言うと、静かで薄気味悪く、理解しにくいかもしれないが、ガイストとかスピリットは非常に元気がよく、活気あるものと考えられている。
 これらは、少し神学的で宗教学的な考えの“魂”の意味合いを持っているように思える。


 今までのは序論にすぎない。
 私が今回一番考えなくてはならないのは、“メタファー”についてである。
 メタファーとは隠喩であると先生は言う。
 つまり、魂とは隠喩表現であり、例えであるということだ。
 では、何を隠喩しているのか。それは“私”というものであるという考えに至った。
 池田晶子さんも、魂とは「自分が自分であるところの“これ”、ある人がその人であるところの“それ”」などと表現している。
 そして、「“私”の“魂”」ではなく、「“魂”の“私”」という言い方をしている。
 もう少しわかりやすい言い方をすれば、魂とは「個性」とか「私らしさ」というものになる。
 よく、「一人の人間を構成しているのは、肉体と精神と魂」という言い回しをされることがある。
 魂が「私が私であるための個性」のようなものだとして、この魂がなく、人は肉体と精神だけで構成されるとしたら、どうなるだろうか。
 世の中は同じような人間であふれ返り、みんながみんな同じクローンのような、つまらない世界になってしまうのではないか。肉体的や外面での変化もなく、考え方の変化もない世界などは、怖くて想像したくない。
 ということは、魂はとても重要な役割を担っているということになる。


 私がゼミで死生学を研究するようになって、足りない部分はここにあった。
 「人が人らしく死ぬ(あるいは生きる)」という以前に、「私が私らしく死ぬ(あるいは生きる)」ということを考えれば良かった。
 魂があるからこそ、私は私でいられる。だから、こうして私なりに考えたり、感じたりできるのだ。つまり、魂は私であり、私は魂である。
 “私”という言い方も、またメタファーだ。
 “私”は、私という人間の肉体も精神も魂も含めて全てなのだが、その根本的な部分は全て魂にある。
 もし、魂がなければ、私は私ではなく、その他大勢だった。
 「魂がない」という表現の仕方はおかしいのかもしれない。前に「魂はどこにあるのか」や「魂が死ぬ」という表現の仕方はおかしいと先生に指摘されたことがある。
 魂はあるとかないとかではないのだから。と。
 そして、また、魂について私の堂々巡りが始まる。魂について考えると、頭の中で糸がこんがらがってしまう。最終的に、自分も他人も納得のいくような答えはなぜか見つからない。
 これは、魂がそうさせているのかもしれない。魂は、言葉では言い表せないものなのだから、魂が言い表されてしまったら、それは魂ではなくなってしまう。
 魂は、私たち一人一人がイメージとして捉えていくしかないのだ。



【参考文献・資料】
●間瀬啓允  「私のサナトロジー」より 3.魂についての語り 4.フロイトの魂学
  (関根清三 編 『死生観と生命倫理』 東京大学出版会 1999 所収)

●池田晶子 『魂を考える』 法蔵館 1999
同書より <魂>の考え方 <魂>の感じ方

●Net Club JUNG (日本ユング研究会主催)のホームページ
  http://jung.circle.ne.jp/

【2005/08/23 23:14】 死生学・生命倫理 | トラックバック(0) | コメント(-) |

【良いこととはどのようなことか。どうしてそれが良いことと言えるのか。】

1. はじめに
 以下は『思想の世界』(1)というインターネット上のサイトの「現代倫理学概説」からの引用である。


「倫理学とは、簡単に言えば、『何が善で、何が悪か』の善悪の基準を問う学問です。
しかし善悪の基準を問う問いというのは、私たち人間がもっているさまざまな問いの一つというよりも、人間の行為を前進させるための必要不可欠で、最も根本的な問いに他なりません。
 『良いことが何か』を知らずに『より良い生』を営むことができないからです。
 そして、人はだれでも、自分自身とその環境を開発しなければならないという宿命を背負って生きていますが、その宿命的な開発の方向を決定づけるのが倫理学だからです。
 倫理学は、方法論的には、他の諸学問と同様に、それを客観的に考察する学問ですが、今日、私たちは、ほとんど無数といってもよいくらいの倫理学に出会います。
 科学や学問の発達にともなって、医学倫理、生命倫理、政治倫理、社会倫理と個人倫理、状況倫理、宗教倫理、などなど、各々の立場や分野で『倫理』と名のつく言葉が数限りなく生み出されてきました。
 しかし、それがどんなものであれ、倫理学の構造は、『倫理』という言語概念によって、おおまかにではありますが、枠づけられています。」



 それでは、善悪の基準はどうやって決めるのか。私たちはどのように善悪を認識しているか。そして、「良いこと」「悪いこと」とはどういうことなのかについて、哲学的見解を交えつつ、探ってみることにした。


2.常識と善悪の認識
 現代でいう善悪とは、社会一般の「常識」の中に存在しうるものである。
 昔話や宗教的な天使と悪魔、正義のヒーローと悪者など、私たちが無意識に善悪と認識しているものも、良く考えたら、その線引きはどこにあるのだろうか。
 善悪というものは、人間が日々の生活の中で、社会を形成していくうちに出てきた「道徳」や「モラル」に伴い出てきたものである。
 善悪の認識は、国、思想、宗教、環境、習慣などで異なる。それは同時に常識の捉えかたの違いになる。
 例えば、イスラム教徒は豚肉を不浄なものとしているため、食べない。インドでは、左手は不浄の手としているため、食事は右手で食べる。マサイ族は、ほぼ裸に近い状態で生活している。韓国では、犬を食べる。
 このように、所変われば常識も変わり、時代も変われば常識も移り変わっていき、個々の思想などが自由になっていくと共に、認識も多様化していった。それにより、時に常識から大きく外れた常識観念が出てくるようにもなった。
 アメリカで、電子レンジで猫を乾かそうとしたところ、猫が爆発して死んでしまったので、「電子レンジで猫を乾かすなと書いてない。」と、電子レンジの製造業者を訴えた例がある。
 また、ファーストフードの食べすぎで太った人が、肥満になったのはファーストフードが高カロリーだからだと、某ファーストフード業者を訴えた例もある。
 私たちの常識では、考えられないような話だが、彼らにとってはそれが常識なのだ。
 この2つの訴訟、どちらも原告側が勝っているが、「電子レンジで猫を乾かすな。」と注記しなかった電子レンジ業者や、高カロリーのファーストフードを提供したファーストフード業者が真の悪者というわけではない。
 善悪の認識は、多様化した常識の中では、判別が難しくなってきている。


3.善悪の矛盾性と犠牲論
 物事の善し悪しを語る場合、「言い訳」というものが出てくる。
 良いことをするためには、何か犠牲を払わなければならないという場合である。
 例えば戦争はどうだろうか。愛する自国を守るため、他国の人間と殺し合いをするというこの行いは、良いことか、それとも悪いことか。
 現代の日本では時代と共に国政も変わり、戦争は「良くないこと」として認識されつつある。しかし、戦前の日本のように、戦争を「正義」として認識している国もまだある。もしくは、「正義のためにはやむを得ないこと」として認識している国もある。
 加藤尚武は、自著である『世紀末の思想』(2)の中で、「正義の戦争」という観念は、キリスト教によって形成されたものであると言っている。
 正義のために戦うことはよしとしても、その戦いによって行われる殺人という行為が許されるわけはない。
 講義の中でもディスカッションした、「自分の姉がイラクへボランティアに行きたいと言ったらどうするか。」という議題でも、人を救うためにボランティアするのは良い、しかし、戦地という危険な場所に行くことで、人質に捕られて脅されて殺されたり、助かったとしても政府や株価に影響を及ぼすなどして、世間に顔向け出来なくなったりしたらと考えると、行かせたくないという意見が出た。
 また、森鴎外の小説『高瀬舟』(3)の中で、主人公は、病気の弟が自ら包丁を喉に刺し、「苦しいから早く抜いて死なせてくれ」と懇願するので、包丁を抜けば喉笛が切れ、出血多量で弟は死ぬが、弟を楽にさせたいがために、包丁を抜いた。その結果、弟は死んでしまい、主人公は殺人罪で島流しにされた。このケースには、生命倫理が絡んでくるが、この主人公の行いは果たして愚行だったのか。
 このように、善悪とは実に矛盾していて、一概に区切ることはできないのだ。


4.善悪とフィランソロピー
 私は専門演習で哲学や生命倫理について学んでいるので、フィランソロピーについても触れておく。
 講義ではフィランソロフィーと言っているが、語源であるギリシャ語の正しい読み方はフィランソロピーになる。
 フィランソロピーPhilanthropyの語源は、ギリシャ語で「人間」の意であるアントロポースAnthoroposと「愛する」という意味のフィレインPhileinの2つの語句から出来ている言葉で、そのまま訳せば「人間愛」「人類愛」「博愛」などとなるが、これは「個人と企業による社会貢献」即ち「公益活動」の意である。
 もし、私たちが善悪を誤って認識したり、常識から外れた善悪の見方をしたまま公益活動をしたら、それは公益活動にはならないだろう。
 ならば、公益活動は、「良いこと」を見極めるために重要な役割をしているのではないか。
そう考えれば、「良いこと」とは「公益活動」ということになる。
 そして逆に考えれば、自分勝手に私益だけを求めていくことは、公益活動ではない、つまり、「良いこと」ではないので、「悪いこと」になる。
 単純な見解だが、私の中での哲学では、「良いこと」と「悪いこと」はそれぞれこのように認識されている。


5.まとめ
 人間を客観的に見た時に、私たちは瞬時にそれが「良いこと」であるか「悪いこと」であるかを決め付ける傾向にある。
 そして、その中に秘められた事情を知った時、その判断を意外と簡単に覆してしまうこともある。
 善悪のパターンにも、自分にとっての善悪、相手にとっての善悪、特定できない誰かにとっての善悪があり、その判定は難しい。
 人は誰でも、幸せになる権利を持っている。加藤尚武も「豊かさを求める正当性とは何か」と問うている。
 こうして善悪について考えることは、公益的だし、哲学にもなるので「良いこと」であり、何も考えず生き方をよりよくして行こうという意欲がないことは「悪いこと」ではないか。
 つまり、善悪とは、倫理的に考えて、哲学しないことにあると考えられる。
 自分の生き方を公益的によりよくしていこうという気持ちが善を生み、自分勝手に私益だけを求めようとする気持ちが悪を生むのだと、私は考える。
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【2005/08/23 23:11】 公益 | トラックバック(0) | コメント(-) |

自由な葬送のスタイルと、その事前設計について

【まとめ】
 近年では、「お墓はいらない」、「葬儀はしなくていい」など、葬送をカスタマイズしようという動きが見られる。
 それと同時に、葬儀のスタイルも多様化してきている。
 最近では「自然葬」といって、多くの人を呼んで葬儀を行ったりはせず、身内だけで慎ましやかに行い、遺骨を土や海などに撒くという葬儀スタイルを望む人も多くなってきている。
 また、墓についても、墓石を故人の好きだった物の形にするなど、ユニークなものが増えたり、遺骨を安置する場所や入れ物についても、多種多様である。
 このような新しいスタイルで葬送を行うとするならば、生前から葬儀プランを立てておかなければならない。
 そうしないと、死亡してからはあっという間に葬儀屋がやってきて、葬儀に対して何もわからない遺族に、葬儀屋で用意した一般的な葬儀プランを勧めるので、ありきたりな葬儀になってしまう。
 しかし、葬儀プランをあらかじめ立てている人は少ない。
 それには以下の理由があげられる。
●葬儀を前もって考えることは縁起が悪い。(死のタブー視)
●葬儀はどれも同じなので考えるまでもない。
●前もって考えたとしても、遺族がそれを実行してくれる保障がない。
 このような理由から、葬儀プランを事前に考える人は少なかったが、最近では、少子化によって自分の死は自分で準備する必要から、葬儀を含め死の事前設計をする人が増えてきた。
 また、死亡してから葬儀するのではなく、生前に自分の葬儀を行うという人もいる。
 葬儀プランを立てるにあたって必要なことは、自分のことだけを考えるのではなく、自分の死に関わる周りの人々の理解を得なければならないということだ。
 自分が死亡してから葬儀を行うのは自分ではなく、遺族であるし、葬儀を行うということは、少なからず手間と費用がかかる。
 また、自然葬で、土に散骨する場合など、法律で認められない土地があるなどという点も踏まえて、葬儀プランを立てなければならない。


【感想】
 去年祖父の葬儀をした時、ごく身内だけで簡単に葬儀を済ませ、祖父の友人がお経をあげてくれた。
 祖父の入る墓はなく、子供たちもバラバラで、結局、一番上の子供である私の母が祖父の遺骨を預かっている。
 まだまだ死をタブー視する傾向がある中で、事前に自分の葬儀について真剣に考え、準備するということは難しいのかもしれないが、これから少しずつ、フリースタイルな葬儀は増えていくだろうと思う。
 また、葬儀には宗教が大きく関わってくるが、特定の宗教に属さない人のためにも、葬儀屋で用意するプランもあらかじめ多様化しておくべきであると感じた。
 日本の葬儀はだいたい仏式が多く、そうでなければ神式かキリスト式という形になっている。
 何もかも色は黒と白に決められ、タブー色が強く現れている。
 自分の死のスタイルを自分で決めるということは、決してタブーなことではなく、最期まで自分らしくあるという、人として当然の権利だということが、広く一般に理解されれば良いと感じた。


【参考文献・資料】
●井上治代「死への実務 自分らしい死と葬送の生前準備」
『AERA Mook 死生学がわかる』 朝日新聞社 2000年 所収

●葬送の自由をすすめる会(山折哲雄・安田睦彦)『葬送の自由と自然葬』 凱風社 2000年

●小谷みどり『変わるお葬式、消えるお墓』 岩波書店 2000年

○ビデオ 「未知なる生命・ヒト THE HUMAN BODY
7.ハービー安らかに THE END OF LIFE」  丸善出版
○「お葬式プラザ 死の総合研究所」
   http://www.osoushiki-plaza.com/institut/index.html
【2005/08/23 23:08】 死生学・生命倫理 | トラックバック(0) | コメント(-) |

日本における公害病と公益

 講義の中で、公害病についての学習をして、もっと調べてみたいと思った。
 水俣病、新潟水俣病、イタイイタイ病、四日市喘息は、日本の四大公害病として知られる有名なものである。これらの公害病は、開発に伴うずさんな廃棄物処理により、環境汚染の結果もたらされたものである。
 これら公害病についての原因や経歴などを調べると共に、公害と公益について理解を深めてみようと思う。

(1)イタイイタイ病
 イタイイタイ病は、大正時代から発生していたと思われるが、その原因が分からず、神通川流域で特有の、原因不明の難病と思われていた。この病気は、神通川流域の川、地下水を飲料水として使用していた地域の農家の、特に中年以降の経産婦に多く発病したことから、女性特有の病気と思われていた。
1955年、地元の民間臨床医の萩野昇博士らにより、体内に異常に蓄積されたカドミウムにより、骨が脆くなる骨軟化症の一種であり、カドミウムに汚染された地下水や川の水を飲用したことが原因で起こる、公害病であることを医学会で発表した。
この病気にかかると、くしゃみをするだけでも胸骨や、顎の骨が折れてしまうくらい、骨がもろくなってしまい、骨の折れる痛みでイタイイタイと泣き叫び、徐々に衰弱し、やがて死亡する例が多いい事から、「イタイイタイ病」と名づけられたのである。
 「イタイイタイ病」は、まさに悲惨な病である。一家の主婦が被害者となるケースが多かつたため、家庭生活は破壊され、とり返しのつかない悲劇もおこっている。現在も根本的な治療法はない。
当初、発表者が民間の医師であったことから、この「公害病説」は大学偏重の我が国の学界の中では無視され、さらに工場誘致による地域開発を進めていた富山県は、公害問題の深化をおそれて、事件をもみけそうとし、萩原医師らは地域からも孤立、事件解決の道は遠のいてしまう。
だが、10年後の1968年、小林純、吉岡金市両博士の協力で、当時神通川上流にあった神岡鉱山の廃液に含まれる、カドミウムを主体とする中毒であることが証明され、やっと政府は鉱毒説を認めた。
しかし、企業側はこれを認めず、被害者らは裁判をおこす。
後に神岡鉱山は、大量の廃液を未処理のまま、夜間や降雨による増水時に、密かに神通川に垂れ流し続けていたことが、判明、その結果下流域の河川、地下水、穀倉地帯の広域土壌汚染をまねく結果となった。これは企業による殺人行為そのものである。

(2)水俣病
水俣病はチッソ水俣工場の排水に含まれていたメチル水銀が原因で発生した、戦後最悪の公害事件であり、長年月にわたり工場排水を、無処理のまま水俣湾などに放出した結果、魚介類を汚染し、 それを食べた人に発症する公害病である。
 この病気は、体内に蓄積したメチル水銀によって主に脳の中枢神経系(大脳皮質および小脳皮質)と末梢神経が侵される病気で、 多彩な臨床症状を示す症候群である。特に手足や口の周りの感覚障害が特徴で、すべての患者に現れる。
 このほか、運動失調、聴力障害、視野狭窄、言語障害などの神経症状があり、さらに知能低下などの精神症状もみられる。
 治療法は根本的なものがなく、主に対症療法やリハビリテーションに頼っているのが現状である。
 水俣病と認定された患者は、昭和56年(1981)11月末現在で1784人、そのうち死者は478人を数える。
 このほか、まだ認定待ちの申請者が5000人を超えており、最終的にどれくらいの患者数になるかは現在のところわかっていない。
 公式発見後も、チッソや行政の責任逃れと、被害の拡大を食い止める適切な対策が何ら講じられないまま、被害が極限まで拡大し、 巨大な公害事件に発展したのが水俣病事件である。
この事件をさらに拡大した原因は、企業と政府・自治体、お抱え科学者の三位一体となって犯した犯罪的行為である。
1959年、熊本大学医学部水俣病研究班は、当時、水俣湾一帯に起った奇妙な病気の原因が、チッソ水俣工場の排水に含まれる有機水銀(メチル水銀)による、有機水銀中毒によるものと発表した。
同年、チッソ水俣工場付属病院長・細川一博士は、猫をつかった独自の実験により、アセトアルデヒドの製造工程の排水により、同様の症状があらわれることをつきとめ、会社幹部に報告する。
 ところが、チッソはこの段階での熊本大の研究の不完全さを理由に、東京工業大学清浦教授のアミン説や、日本化学工業協会大島理事の爆薬説を反論として対抗し、細川博士や熊本大研究班の立ち入り検査を制限し、研究妨害を続けた。
 1963年、熊本大研究班は苦心の結果、アセトアルデヒドの製造工程から有機水銀が排出することをたしかめ、国際的にも学会で承認されるに至る。
 この間、政府は水俣病の原因は不明とし、チッソと日本化学工業協会を擁護、事態を放置した。
 政府が本格的に有機水銀の調査を始めたのは1966年、チッソによる工場公害と認めたのは翌年である。熊本大研究班の発表から、約8年後のことであった。この間、新潟県阿賀野川下流部において、第2水俣病が発見された。
現在、水俣湾一帯の有機水銀で汚染されたヘドロは、巨額の税金で処理され、死の海も少しずつ快復してきたとは言え、水俣病認定や患者補償の問題は、いまだに解決のめどさえたっていない。
 少しずつ風化しようとしている事件だが、メチル水銀中毒症という医学的病名は、公害病「水俣病」として世界的に知られるようになった。


(3)四日市喘息
1960年頃より四日市コンビナートで石油公害が発生した。その後、大気汚染や海水汚濁による、いわゆる四日市ぜん息患者の発生や、異臭魚問題などを引き起こして、四日市の名は、わが国有数の公害都市として全国に知られるようになる。
当時、地域振興が叫ばれ、各自治体は積極的に工場誘致運動を起こしていた。
 この誘致運動は、進出した工場に対して税制上の優遇措置等が講ぜられたが、それらがもたらす公害問題に対する配慮が十分になされず、適切な地域開発計画や、土地利用計画の下での公害防止に、力点を置く余裕のない公害都市を出現させた。
 高度経済成長期における公害問題の代表例として、全国的な住民運動に発展するきっかけとなる。

(4)新潟水俣病
1964年、新潟県阿賀野川下流域において、第二水俣病が発見され、半年後に新潟大学・椿忠雄教授らによって、「水俣病」であると発表された。
 さらに、政府の委託調査団は、チッソと同種の製造工程を持つ「昭和電工鹿瀬工場」の廃液が、水俣病の発生原因と「診断」すると発表した。
 「断定」ではなく「診断」といったのは、発表直前の通産省の圧力によるものと言われている。
 ところが、昭和電工は責任を取ることを拒否、被害者側は裁判を提起した。
裁判では、政府調査団などの「工場廃液説」に対抗し、横浜国立大学・北川徹三教授の「農薬説」を主張。
 結果としては、「工場廃液説」が立証されたが、長期の裁判で被害者らは、さらに不安と苦しみを味わうことになる。
 昭和電工は事件後、この工場を別会社にかえ、問題の生産施設を撤去しただけでなく、製造工程図のような証拠物件をもすべて焼却してしまったのである。
 真意はともかくも、証拠隠滅といわれてもしかたのない犯罪的行為である。

(5)足尾銅山鉱毒事件
 これは四大公害病ではないが、日本の公害の原点となる重要な事件だったので、述べておく。
足尾銅山の精錬所から有毒廃液が渡良瀬川に垂れ流され、下流沿岸全域で農・漁業、 住民生活に重大な被害を及ぼし、日本の公害事件の原点と言われるようになる。
その後、鉱毒被害は深刻化、被害が渡良瀬川下流の利根川水域全体に拡大するにつれ、重大な政治問題になる。
 1891年、栃木県選出の代議士・田中正造は、住民の被害防止と救済を求め、足尾鉱毒事件を帝国議会で弾劾する。
 1900年、足尾銅山の操業停止を求め、群馬県・館林の雲竜寺に集結した群馬・栃木県下の被害民ら約3000人が、上京して被害の惨状を政府に訴えようと渡船場の川俣に到着したところ、 待ち構えていた警官・憲兵隊に急襲され、300人以上が重軽傷を負った。
 この流血事件は、後に「川俣事件」と呼ばれ、当時の政府の無策と、警察の横暴を示すものであった。

(6)その他の公害とまとめ
 近年のものとしては、荏原製作所引地川ダイオキシン汚染事件や、JCO東海村臨界事故などがある。
 これら公害は、1つのことをよりよくするために、他の部分を見ることが疎かになり、公益から公害へとなってしまったものばかりである。
 これら公害を防ぐためには、開発をやめなければならないかというとそうではない。開発の仕方と、開発に伴う廃棄処理や企画などをもっと工夫して、小さなところまで疎かにせず、実行していけば良いのである。
 例えば、その開発に合わない土地での開発は、その土地を悪くするだけである。土地に合った開発をすることは、その土地の特色を生かすことにもなり、環境も崩れない。
 また、逆に、新たな試みをする場合もある。この土地では育たないと思われている作物を作ってみて、それが成功することもある。しかし、それは環境を崩さないための入念な調査と細かい配慮が必要であり、成功までには長い時間もかかることがある。
 また、地球環境を思いやる気持ちが、大切で、その気持ちひとつで、公害への道を突き進もうとする開発を、公益への道へ導くことができる。
 私たちがもう二度と公害病のような悲劇を起こさないためには、真の公益について考えることが必要であり、本当に必要な開発だけを行い、できるだけ環境を破壊しないように配慮しなければならない。


【参考文献】
・ 宮沢信雄 『水俣病事件四十年』 葦書房 1997
・ 『全国公害患者の会連合会』
http://www.aozora.or.jp/kougai/
・ 環境省『環境白書情報』
http://www.env.go.jp/policy/hakusyo/
・『日本の公害の歴史年表』
http://www.cityfujisawa.ne.jp/~yu-walk/kankyo-20-36.htm
【2005/08/23 23:07】 自然・環境 | トラックバック(0) | コメント(-) |

中学校における不登校の問題と対策

 中学生という時期は、ちょうど思春期に入り、大人の階段を上り始める時期である。それ故、精神面でも非常に傷つきやすく、ちょっとした出来事で不登校に陥りやすい。私自身も中学時代思い込みで短期間の不登校を経験したので、今回は不登校の問題をテーマにして、調べてみることにした。

 不登校にも様々なケースがある。家からまったく出ないで、学校に行かないケースや、学校には行くものの、教室には入れないケース(「隠れ不登校」とも呼ばれる)。また、特定の授業だけ受けないケースなどがある。
 そして、不登校の理由にも、様々なものがある。文部科学省の調査によると、いじめや教師への不信、親子関係が不登校のきっかけとなったケースが多く、集団生活への不安、緊張、無気力なども要因とされている。

そして最近の不登校の傾向として、コミュニケーション能力の低下による、集団生活への不適合タイプと学校に価値を見出せず、学校に行かないで好きなことをするタイプがあり、多くの不登校児は前者のタイプである。また、学校に行かなくてもよい、と考える保護者も増えているとのことだ。
 この二つのタイプ別に対策を挙げていくとする。

まず前者のコミュニケーションが苦手な集団生活不適合タイプには、学校自体に来ることができないケースならば、教師やクラスメイトによる家庭訪問でコミュニケーションを少しずつ図ってゆき、学校へ誘い出すという方法がある。これは、とても忍耐強くなくてはならない。最初はダメでも、何度か会いに行っているうちに、少しずつ顔を出してくれたりするようになることがある。また、子供が学校に来ることができるように、本人が心配している問題を探し、それを解決し、環境を整える必要がある。その原因がいじめである場合は、学校側で隠したり、見て見ぬふりをしたりせず、いじめた側の生徒への対応をしなければならない。また、不登校児のメンタルヘルスが良くなく、思い込みからくる不安で不登校に陥っている場合は、その不安を取り除き、心配させないようにしなければならない。
 学校には来ることができるが、教室には入れないというケースならば、保健室登校という方法がある。保健室で自習しながら一日を過ごし、また、養護教諭やスクールカウンセラーに相談したりできる。最近ではスクールカウンセラーが常駐・または非常勤で「談話室」などにいて、生徒の相談に乗ったり、雑談したりする役目をしている。
 特定の授業のみ受けないというケースでは、その授業に何か問題がないかを調べ、本人が何を心配しているかを探し、解決していかねばならない。例えば、体育の時間体操着を着るのが嫌だという理由があるとする。しかし、一人だけ体操着を着ないという特別扱いが出来ないという問題がそこで発生する。ここで、本人に妥協してもらうか、規則を変えるかが難しい問題である。

 後者の学校に行かないで自分の好きなことをしたり、何もしないでいる無気力タイプへの対策は難しい。本人が学校へ行く目的を見出せないのに、無理に学校に誘っても来ないだろう。また、他にやりたいことがあって学校へ来ないというのであれば、それは本人の自主性を尊重してあげなければならない。親が「学校へ行きなさい」ときつく言えば言うほど、子供は逆に学校へ行きたがらなくなってしまう。子供が学校へ行く意味を見出せるように、見守りながら誘導してあげなければいけない。
 また、フリースクールというものがある。フリースクールは、学校に行けない子供たちが、学校の代わりに通い、子供たちの自主性を尊重しながら活動する場を提供している。フリースクールが子供にとって学校になるならば、無理に正規の学校へ行くことはないのかもしれない。

 どちらにしても、不登校児とは常にコミュニケーションをとっていかねばならないということがわかった。今後の教育のあり方も、不登校に大きく関わってくるし、不登校児が増えるのも減るのも、教育方針によって違ってくる。今後、学校や教育が大切なものとしてとらえられれば、不登校はなくなるはずだ。

【参考文献】
● 河合洋 『学校に背を向ける子ども なにが登校拒否を生みだすのか』 日本放送出版協会 

● 森田洋司 『「不登校」現象の社会学』 学文社

● 渡邉広史・石井志昴・田中健一・奥地圭子 『心配しないで不登校 ぼくの見つけた生き方』 講談社

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【2005/08/23 23:06】 地域社会・地元 | トラックバック(0) | コメント(-) |

『地球持続の技術』を読んで




 私はこの本を読んで、地球がゴミで埋まってしまうということが一番気になった。生ゴミは土に還すことはできるけれど、人間が作った人工物は、土に還すことができないため、そのままにしていたらゴミは溜まって行く一方である。そこで、リサイクルの大切さを改めて思い知らされた。技術は人間の生活をより良くするために発展してきたということを知ると同時に、地球をいつまでも青いままにするために技術はこれからも発展して行かなければならないということを学んだ。最近ではリサイクルの技術もかなり良くなって、ゴミ処理施設なども、かなり画期的な構造になっているため、これから人工物全てがリサイクルできるようになると良いと思う。
 また、自然エネルギーについては、身近に感じられるものがあると思った。大学では太陽光を使った発電をしているし、近隣の立川町では風力発電をしている。また、ゴミ処理施設では処理によって生じた熱をエネルギーに変えたりもしている。この本を読んで、いろいろな自然エネルギーの種類を知ると同時に、省エネについても深く考えさせられた。自然エネルギーに頼るのは良いことではあるが、エネルギーの無駄遣いをするのでは意味がない。冷蔵庫やクーラーなど、冷やす効果のあるものでさえも、エネルギーを消費して逆に熱を帯びて地球を温暖化に導いているくらいなのだから、地球を冷やす科学技術が開発されれば良いと思った。地球の温暖化の原因である熱をエネルギーに変える技術が生まれることを願う。
 人は技術によって地球を少しずつ削ってより良い生活を求めてきたが、今度は贅沢を削って地球をより良くしていくために技術を開発していかなければならないと思った。
【2005/08/23 23:05】 自然・環境 | トラックバック(0) | コメント(-) |

『森と庭園の英国史』を読んでの感想




 この本を読んでいて、同時に遠山先生の講義を聞いていて、素直に感じることは、先生は英国の森の話が本当に好きなのだということです。講義の様子や、著書の文面からも楽しそうな雰囲気がビシビシ伝わってきます。
 ピーターラビットにおいても、くまのプーさんにおいても、私たち一般人にとってはただのキャラクターに過ぎなかったのですが、英国史をたどることでそのルーツが見えてくるというのも、非常に面白いものだと思いました。
特に、くまのプーさんが英国発だということを私は知らなかったので、自分でも調べてみて、なるほど、確かにくまのプーさんには兎(ラビット)も出てくるし、創作者はクリストファー・ロビンのお父さんで、イギリス人だと納得しました。
また、ピーターラビットについてのトリビアで、先生はもちろんご存知かもしれませんが、ピーターラビットのお父さんはマグレガーさんに捕まってうさぎパイにされて食べられてしまいますね。うさぎパイは英国の伝統料理ですが、このようにシビアな現実もシュールに書いてしまう英国童話はすごいと思います。
くまのプーさんでも、蜂蜜の食べすぎで太ってしまって兎の穴から出られなくなってしまい、1週間ほどのダイエットののちにみんなで引っ張ってもらって出ることができたというお話には思わず苦笑してしまったほどです。
現代の童話は甘すぎるほどにリメイクされていて、大人ではあまり楽しめなくなっているので、グリム童話の原作ぐらいシュールで苦いほうが、子供にとっても本当はおもしろいのかもしれません。
 また、ForestとWoodの違いについてや、森が特別に法で括られた区域だということで、英国ならではの森の神秘性を感じました。この聖なる森に、ピーターラビットやプーさんが住んでいるのかと思うと、ちょっと違和感があるような気がしますが、それはそれで面白いと思いました。
 他に、トマス・モアについても、少し興味を持ったので、調べてみたところ、『ユートピア』の2巻に「職業軍人はなく、侵略のための戦争は禁止されていますが、国土防衛のために国民全員が男女の区別なく民兵として訓練を受けている。」というような記述があり、このあたりに日本の憲法と似たような矛盾を感じました。ユートピアとは「どこにもない」という意味の、単なる理想郷に過ぎないのですが、モアの描いたような平凡な理想郷を好むあたりは、英国人ならではのセンスだと思いました。
 いつか、私もヨーロッパに行って、英国でアフタヌーンティーとスコーンを戴きながら、先生の著書を片手にまったりとすることができると良いです。それがそのまま私の理想郷になってしまうならば、私も英国人と同じセンスを持っているのかもしれません。
【2005/08/23 23:04】 その他課題 | トラックバック(0) | コメント(-) |

高齢化と医療レポート

1.はじめに
 日本は日に日に高齢化への道を突き進み、65歳以上の高齢者が7%以上の高齢化社会を超え、ついに、65歳以上の高齢者が14%以上の高齢社会を迎えた。
 しかし、現在の日本の制度では、高齢社会を支えきれない状態である。
そして、このままでは支える若者たちも、支えられる高齢者たちも互いに負担になり、人が人らしく生きていくことがままならない状態になってしまう。
 果たしてそんな社会が、公益的と言えるだろうか。
 また、長生きを考えた上で、ただ長生きすることだけが、生命の質(Quality of life)の向上と言えるのだろうか。

2.高齢者の介護
 私たちは高齢者に対していろいろ偏見を持っていたりしないだろうか。高齢者は邪魔になるだけと、姥捨て山のように、施設へ追いやったりしていないだろうか。
 老後における介護においても、誤った見方をしている場合がある。高齢者のための施設は、公益のためにあるものであって、高齢者の介護を押し付けるための場所ではない。
 また、高齢者の介護をするにあたって大切なのは、あきらめないことである。あきらめたら、あとはただ死を待つのみの、つまらない人生になってしまう。
 人には、皆、人は人として最後まで精一杯生きる努力をする義務があり、人が人として最後まで幸せに生きることのできる権利があるはずである。
 一番簡単なのは、自分の老後について考えることである。そうすれば、将来は制度的にどう変わるべきかを考え、変えていくことができるし、高齢者に対する見方や接し方もわかってくるはずだ。
 また、今後は高齢者の介護を専門とする介護福祉士の育成についても考えていかなければならない。
 保育施設や養護施設で、職員が虐待をしていたという話を聞いたことがある。子供も、障害者も、高齢者も、社会的・肉体的に弱者である。
自分よりも弱い立場の者に対して、排除の念を示すのではなく、人として大切にし、彼らを隔てている壁を取り払うようにつとめなければならない。
 それは、手すりをつけたり、車椅子でも動きやすい施設設計などの具体的なことも含めて、コミュニケーションや見方など、気持ち的な面でもだ。
 そうしなければ、真のバリアフリーとは言えないのではないか。
3.年金制度
 積み立てではなく、若者が高齢者を支えていく年金制度は、高齢社会においてはつらく厳しいものとなる。それは支えていく若者にとってもそうだが、支えられるべき高齢者にとってもそうなる。
 支えていく若者がいなければ、高齢者は生活が困難になってしまう。
 年金制度が積み立てという形でないのは、物価や金銭の価値が変動するからである。
 こういう時こそ、国が補助しなければならない。
 しかし、日本は税金の使い方があまりうまくなく、足りない部分を上手にサポートできていない。
 この問題をなんとかしなければ、日本は、スウェーデンなどのような社会福祉先進国にはまだまだ程遠いと言えるだろう。

4.科学技術とバリアフリー
 バリアフリーの社会づくりに、科学技術の発展はなくてはならないものである。これら科学技術には、介護補助器具の開発や、新薬の製作、難病の解明など、様々な期待がされている。
 しかし、技術面で注意しなければならないのは、それが本当に人のためになるかどうかということだ。
 例えば、楽に死ねる安楽死用の薬の開発や、また、絶対に死なない不老不死の薬が開発されたとして、それは本当に人のQOLを向上させるためにあるかと言えば、どうだろうか。
 技術とは、発展すれば良いというものではない。その技術が社会に本当に必要なのかをよく考え、発達させなければならない。
 そして、その技術の開発のために、多くの人が協力していかなければならない。

5.公益について
 公益とは、世の為人の為の社会的利益である。全ての人が平和に暮らせなければ、公益は成り立たない。
 つまり、世の中から弱者などの隔てをなくし、壁を取り払うことが公益につながる。
 上で述べたように、バリアフリーとしての公益がある。
 また、公益の中にある、権利、義務などについても考えていき、高齢者だけでなく、全ての人が住み良い社会を作り上げていかなければならない。
【2005/08/23 23:03】 医療・技術 | トラックバック(0) | コメント(-) |

死の自己決定

「死は誰のものか」ということで考えてみると、まず、「自分のもの」という考えが出てきます。
 いかし、実際の尊厳死や、臓器の提供などに関しても、必ず家族の承諾を得なければできないし、それを決行する意思の判断にも左右されてしまうという点では、「死は、自分と、自分に携わった人間みんなのもの」という考えになります。

 人は誰でも生きる権利、死ぬ権利、安らかになる権利があります。
 だから、その権利を有効に活用するには、常日頃から家族や医師たちと、自分の死について話し、理解してもらうことが必要です。
 そのようにしないと、食い違いが出てきて、家族や医師たちの間でいざこざが起きるのです。
 日本で、このようないざこざがよくあるのは、日本人の中で「死=タブー」という考えが根強く残っているからだと思います。

 肉体的苦痛だけでなく、精神的苦痛からも逃れるために、死を選び、そしてその行為を他人が助けるという自殺ほう助の精神に関しては、まだ少しひっかかるところがあります。
 私は「自殺なんて行為は、弱い人間のすることだ。」と思っていたからです。
 でも、それは違うのかもしれないな・・・と、今日思いました。

 ですから、私は、「死ぬ権利」に関しては良いとは思うのですが、「自殺」をもっと深く考えていく上では、まだ理解しきれない部分があるのです。
【2005/08/23 23:01】 死生学・生命倫理 | トラックバック(0) | コメント(-) |

PROFILE

慧;ヶィ
  • Author:慧;ヶィ
  • ヘタレ大学生。
    中途半端にいろんなことに手を出すので、
    無駄に役に立たない知識が溜まってゆきます。
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