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「私は自分自身の延命治療は拒否します。」
という考えのもとに生きていることは変わりません。
けれど、延命治療全てが悪いと考えてるわけじゃないんです。
今日は、延命治療がこうであってほしい、というお話。
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これもゼミ合宿で発表したものです。
卒論の内容の一部になります。
ネアンデルタール人の話は、昔国語の教科書で読んだ記憶があります。
確か小学校高学年ぐらいの頃。
合宿では、N村くんに「これは遺族から見た葬の意味として書かれていますが、
死者側からの視点では葬の意味はどうだと考えますか?」と質問されました。
そういえば書いてないやーと思った。
というのも、葬儀屋さんのホームページを参考にしたから、
遺族側からの視点になっちゃったんでしょうね。
で、私が考える「死者側から見た葬の意味」はですね、
葬儀という儀式で自分の事を知ってもらい、憶えていてもらい、
思い出という形でみんなの中で生き続けるということ
だと思うんです。
だから、私たちは葬儀をするのでしょう。
そして、「葬」という字を見て下さい。
「死」という部分は、上のくさかんむりと、下の足の部分に囲まれてますね。
この二つはどちらも植物を表しているんです。
このことを踏まえて、レポートのほうを読んでいただけると、
理解が深まると思います。
今回のゼミ合宿で発表したもの。
卒論の最初の部分に組み込む予定のものです。
まだまだ肉付けしてかなきゃならんのですが、
人体の不思議展の感想も一緒に書きたくて、
これに内容盛り込んじゃいました。
先生はね、人体の不思議展ではみんな「死体」としてではなく
「標本」として見てるから、何も感じないんだろうと言ってました。
そりゃーそうだ。
タイの死体博物館は、標本ではなく死体として展示してるし、
ホルマリン漬けとかはプラストミック標本より生々しいから、
気持ち悪いと感じるだろうな。
人体展は、やっぱり「死=タブー」の意識から、
あえて「標本」って言ってるんだよね。
「死体」展示会って言ったら、批判されるだろうから。
私の中の潜在意識も、「死体」ではなく「標本」として見ていたんだろうなぁ。
私は内臓グチョグチョのグロ画像よりも、血のほうが苦手。
血は見るだけで貧血起こすし、5ml採られただけでも貧血起こす。
血って、人間のつながりっていう意味もあるよね。
「血縁」って言うじゃん?
だから、「血がない=人間としてのつながりがない」から、
血があんまない標本みたいな死体とかは、「モノ」っていう意識が
余計に強まるのかもしれない。
血って、人と人とを関連させる大切なものなんだね。
それから、目も大切かもしれない。
人体展の標本はほとんど義眼のものが多かったのですけれど、
義眼ではなく本物っぽい濁った目のものを見たときは、
ちょっとだけくるものがあった。
ではでは、発表用のモノをどうぞ。
絶対うちのゼミで私のブログ見たことある奴いるだろ。
まぁ、いいんですけどもね。
アクセス解析見るといろいろ面白いことがわかります。www
さて、ゼミ合宿でしたが、正直夜飲みすぎて大反省。
ガラにもないこと言いまくったし。
でもその中の半分は嘘かもしれません。
ごめんなさい。
というか、酔ってて憶えてないんだよー。
横綱の話題は憶えてるんだけどね。
で、今日は山道下る時に二日酔いと車良いでかなーりグロッキーでした。
まともに食事もできなかったし。
もう酒とタバコはマジでやめなきゃ。
ダイエット始めてから食事量も体重も確かに減ってますが、
体力も一緒に減ってるので、不健康にやせていってます。
少し体力をつけなきゃだわー。
いやはや・・・お久しぶりです慧です。
いよいよ明日はゼミ合宿。
卒論の中間発表をせねばならないので、先週から平日はバイトを休んで
よっしゃ卒論がんばるぞー!って思ってたのですが・・・
ぶっちゃけ、昨日から書き始めました。orz
卒論の概要すら決まってなかったです。
でもまぁ、今まで書いてきたレポートを活用させるような構成に
なったので、まずはOKかな。
内容のほうは、二節分ぐらいちょこっと書いただけです。
まぁ、中間発表だしね。
というわけで、これから学校行って全員分のコピーとってきます。
一応概要もここに載せておきますね。